1.本当にカンボジア?全員無事に帰ってきた。現地スタッフの心のこもったセッティングと、 同行してくれたボランティアメンバーの強力なサポートのおかげで、 その責任を充分果たせたと思う。 実は、渡航直前まで本当に向こうできちんとした公演ができるのか不安だらけだった。 大使館から招待状が来てはいるものの、ステージの時間も二転三転でプログラムも確定できないままの出発。 (加藤師範には、向こうに着いてからプログラムを組み直すかもしれないよと話していた。) しかし、ここまできたらやるしかない。海外公演の経験者も多いので何とかなるだろう。いざ出発! |
2.チャトモック劇場は大成功まず、到着日に日本大使館へ招かれ、歓迎を受ける。 翌日、プノンペンのチャトモック劇場で日本大使館再開十周年記念の日本・カンボジア文化交流祭のコンサートに出演。 オープニング演奏を勤める。オープニングの後の来賓によるスピーチに続き、呼魂太鼓のステージ。 休憩を挟んで、カンボジアの7団体45名による太鼓演奏(カンボジア芸術大学フン・サイン教授指導)。 豊後くれない太鼓の演奏の後、参加者全員による合同演奏。リハーサル時の打合せのみのぶっつけ本番だったが 、太鼓のリズムは国境を越えた。呼魂太鼓のメンバー二人が道化面で踊りとからむと盛り上がりは最高潮に。 これをカンボジア王女はとても喜ばれたとのこと。 大使館、日本人会、ASACの協力で、立ち見が出るほどの盛況となり、文化交流 祭のフィナーレともなる「日本カンボジア太鼓コンサート」は大成功だった。 |
3.世界遺産アンコールワット3日目はオフ。カンボジアが誇る世界遺産アンコールワットを駆け足ではあったが見学。 偉大なクメール文明の一端に触れることが出来た。こちらへ来て初めてのスコールを体験するが、 アンコールトムの急階段を登る時などは小止みになった。きっとみんなの心掛けが良かったのだろう。又、雨のお陰で、 あまり暑い思いをしなくて済んだのも事実だ。 観光地では子供達が重要な稼ぎ手らしい。要所要所で子供達が写真集などを売りに寄ってくる。 地雷でやられたのか、足の無い子もいた。学校へ通える子供達は幸せな子供達なのだろう。 帰り道に寄った湖で、ピックやライオン達が2人の男の子と砂遊びを始めた。するといつの間にか、 さっきまで本を売っていた2人の女の子が、その横で砂遊びを始めたのだ。商売の邪魔をしてしまったかもしれない。 でも大人がそれを叱るわけでもない。ライオンもピックも、本当はもっと遊んでいたかったに違いない。あの子供達もきっと・・・ |
余談だが、行きの飛行機で面白い体験をした。出発前に機内が煙に包まれたのだ。一瞬何が起きたかと思ったが、 乗務員はどこ吹く風。小さな飛行機なので搭乗中に機内の空気は外と同じ状態になる。そこへエアコンを入れるものだから、 湿度の高い空気が急に冷やされて、まるでスモークをたいた様になる。前の方で、 中国人らしき男性が「Why?Why?」叫んでいる。そのおじさんは到着まで、非常口の横の席に緊張して座っていた。 |
4.カンポットは凄まじい暑さだった4日目にカンポットへ。揺れるバスの中で口太鼓(ドンカカドンドンと口でリズムを歌う)でリハーサルをし、 カンポットのASACセンターへ着くと、近隣の小学校は午後の授業を休校にして出迎えてくれた。不思議なもので、 こんなに揺れるバスに乗るのは皆初めてだったと思うが、 1,2時間も乗っていると慣れてしまったのか、 疲れの方が勝っていたのか、殆どのメンバーが飛び上がるほどの揺れにもめげずに眠っていた。 早めに現地に行っていたライオンとピックこと佐藤くんと川島くんは、カンボジアの子供達はシャイでのりが悪い、 などの心配をよそに既に子供達に囲まれて遊んでいた。(二人のキャラクターに負うものがあったと思う。)その効果も あってか開演1時間前から子供達は場所取りの為に最前列に陣取っていた。手拍子が始まり演奏にも力が入る。 |
それにもしても想像を越える暑さ。メンバーの一人が演奏終了後、休憩室で脱水症状を起こし意識が無くなる状態に。 一時はどうなるかと慌てたが、暫くして意識が戻り、点滴無しでも大丈夫との診断にほっと胸をなでおろした。 とにかく体温よりも高い気温、高い湿度。汗をかいても乾かないので、体温が逃げず、熱が体にこもっていく。 夏のカンボジアの屋外で和太鼓を演奏するのは自殺行為かもしれない。私は移動中のバスの中でも頻繁に水分を取り続け (ウォーターローディング)、演奏中もできる限り水分補給をした。多分この日4リットルは飲んだと思う。 それでも喉は渇いた。水分補給については事前に注意されてはいたものの、経験の無い人には想像もつかなかったろう。 私はマラソンで給水が出来ずに脱水症状になりかけた経験があり、脱水状態の恐さを身をもって知っていた。 そんな経験が無ければ同じような目に会っていたかも知れない。 その後一人を残し、近くのソバンサコー小学校へ。歌ったり踊ったりケンケンパで盛り上がり、紙ヒコーキで遊び、 ここではサポートで同行してくれたメンバーが中心になって子供達と遊んできた。壊れかけた校舎で学ぶ子供達は、 とても明るく素朴で、日本の子供達が失ってしまった何かを持っていた。 |
5.ドリアンは臭くなかった(美味かった)カンポットでは、昼夜ともにカンポット川に張り出すようにたっているレストランで食事だったが、 ここで用意してくれた海老は美味しかった。そして、これは絶対に食べようとみんなで言っていたドリアン。 かなりの覚悟を決めて行ったのに、拍子抜けするほど臭くなかった。マンゴーとバナナを合わせたような食感。 (と私は感じたが)中々美味しいではないか。取りたての物はそんなに臭わないのだそうだ。 時間が経つにつれ段々臭くなるとのこと。さてはみんな新鮮なドリアンを知らないんだな。 と、ちょっぴり優越感を感じたのであった。 |
6.プレイベン小開校式では皆踊り出した5日目、カンポットからプノンペンへの帰路の途中にあるプレイベン小学校で、開校式の祝賀演奏。 村の人達が総出で出迎えてくれた。立派な舞台を用意してくれたのだが、 我々の太鼓では踏み抜いてしまうのは必至といった状態の床板。しかたなく、炎天下での演奏となったが、 日向に出ただけで体中の汗が吹き出てくるような暑さ。演奏開始後4,5分もすると頭がくらくらしてくる。 メンバーの眼を見ると皆放心状態のような眼に。「よく最後まで持ったな」というのが正直な感想。 その後の長いスピーチがありがたく思えた。 テープカットの前に紅竜囃子を演奏すると、次第に踊り出す人たちが・・。終わるに終われず、 いつもの3倍ほど演奏したが、ほっとする間もなくアンコール。「ええいっ、ままよ」と急きょ弁天囃子を演奏。 かくして一人が貧血を起こしてしまった。 |
この暑さをどう表現したら伝わるのだろう。帰国後サウナに入った時、 以前は3分も入っているとたまらなくなり5分も居れば長いほうだったのに、 10分も入っていて全然効かなかった。と言えば、少し分ってもらえるだろうか。 |
長い長い開校式が終わって、昼食のもてなしを受けた。椰子の木陰でガーデンパーティである。 水溜りのような池で飲料水を汲んでいるような所だが、ココナツや我々の為にわざわざ用意したのだろう、 ミネラルウォーターもある。お土産は手作りの箱に入っていた。精一杯のもてなしであることが分かり感激した。 帰り際、又、子ども達と遊ぶ。これで全ての演奏日程を終えた。 帰りは少しウルルンになっていたかもしれない。 |
7.トゥール・スレンは耐え難かった最終日は、買い物デー。セントラルマーケットへ行く。渡航前にお世話になった方たちへ、 少しばかりお土産を買わなければならない。少しばかりといっても、かなりの数だ。 しかも、あまりカサの張るものは荷物の制限があるため持ち帰れない。それでも値引き交渉の駆け引きの楽しさを少し味わった。 午後は、空港へ行く前にトゥール・スレン博物館へ。1975年から3年8ヶ月に及ぶポル・ポト政権下で、 激しい拷問の舞台となった刑務所だ。それまでは高校だったという建物は、当時の日本でも近代的といえる鉄筋3階建ての校舎。 ここに収容された約2万人の内、奇跡的に生還できたのはわずか6人。この生存者が描いたという拷問の図も凄まじかったが、 それにも増して耐えがたかったのは収容されていたという子供達の顔写真だった。ただの顔写真なのに、 カンポットやプレイベンで遊んだ子供達と重なって胸がつまり、涙をこらえることが出来なかった。 権力者や指導者が狂うとこんな悲惨な結果を生むのだ。20世紀に人類は、戦争のおろかさを学んだはずなのに、 未だに地球のどこかで戦争が絶えない。日本も、平和ボケなどしてはいられないのだ。 さすがに一同黙り込んでホテルへ。楽器を積み込んだら空港へ向かう。 最終日にして、カンボジアらしいスコールに遭う。あっという間に道が川になる。それにしても、 到着日と太鼓公演のあった日は雨に遭わなかった。ASACセンターからの帰りのバスの中では雨が降ったが、 皆雨を見て喜びの声を上げたほどだった。晴天を祈って、全ての公演に「紅竜昇天」を入れたのだが、 見事に当たった。実は、我々が帰国してから1週間の間、毎日スコールがあったそうだ。これもみんなの心掛けか。 |
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8.成田は寒かった翌朝、成田空港に着く。あまりの寒さに一同震えてしまった。よくぞこの一週間という思い。 振り返ると、かなり過酷な公演ツアーだったと思う。よく、子供達から逆にエネルギーをもらったという話しを聴くが、 私達はエネルギーを出し尽くしたというのが正直な感想。しかし、子供達は私達のエネルギーを確かに受け取ってくれたと思う。 いつかこの子供達の中から、カンボジア伝統文化の担い手が生まれ、いつの日か日本で競演できる日が来たら最高だと思う。 |
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9.このツァーに関わった全ての人に感謝最後に、このツアーで忘れてならないのが、同行してくれたサポートメンバーだ。 このツアーを無事に切り抜けることが出来たのは、正にこのサポートメンバーが同行してくれたからだ。 このメンバー無しにはこの公演ツアーの成功は有り得なかったと思う。そして、日本大使館、日本人会、 ASACスタッフの皆さんの協力によってすばらしい体験を得る事ができた。 また、この公演ツアーのきっかけを作っていただき、その後も連絡等でお世話いただいた岡村真理子さん、 チャリティコンサート実行委員会を立ち上げてくださった宮武さんをはじめ実行委員の方々、 芝浦柏の生徒会の皆さん、ご寄付いただいた方々、そしてコンサートに来ていただいた方々、 新聞等で報道してくださった方々、本当に大勢の方々にお世話になった。心から感謝! |