呼魂太鼓

呼魂太鼓は千葉県柏市を中心に活動をしている和太鼓集団です

TEL:04-7139-4183


〒277-0005 千葉県柏市柏228


  

〒277-0072 千葉県柏市つくしが丘1-14-6(本部)

活動

呼魂太鼓カンボジア公演ツアー・レポート

 

1.本当にカンボジア?

全員無事に帰ってきた。現地スタッフの心のこもったセッティングと、 同行してくれたボランティアメンバーの強力なサポートのおかげで、 その責任を充分果たせたと思う。  実は、渡航直前まで本当に向こうできちんとした公演ができるのか不安だらけだった。 大使館から招待状が来てはいるものの、ステージの時間も二転三転でプログラムも確定できないままの出発。 (加藤師範には、向こうに着いてからプログラムを組み直すかもしれないよと話していた。) しかし、ここまできたらやるしかない。海外公演の経験者も多いので何とかなるだろう。いざ出発!


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(プノンペンの空港に到着)
2.チャトモック劇場は大成功

まず、到着日に日本大使館へ招かれ、歓迎を受ける。 翌日、プノンペンのチャトモック劇場で日本大使館再開十周年記念の日本・カンボジア文化交流祭のコンサートに出演。 オープニング演奏を勤める。オープニングの後の来賓によるスピーチに続き、呼魂太鼓のステージ。 休憩を挟んで、カンボジアの7団体45名による太鼓演奏(カンボジア芸術大学フン・サイン教授指導)。 豊後くれない太鼓の演奏の後、参加者全員による合同演奏。リハーサル時の打合せのみのぶっつけ本番だったが 、太鼓のリズムは国境を越えた。呼魂太鼓のメンバー二人が道化面で踊りとからむと盛り上がりは最高潮に。 これをカンボジア王女はとても喜ばれたとのこと。

大使館、日本人会、ASACの協力で、立ち見が出るほどの盛況となり、文化交流 祭のフィナーレともなる「日本カンボジア太鼓コンサート」は大成功だった。
この後、プノンペンで開かれている長縄さんの個展を訪れた小川大使が、このコンサートの事を大変喜んで話されたそうだ。 また、岡村真理子さん(ASAC代表)は我々の帰国数日後、大使館から呼び出しがあり、 大使から丁寧なお礼の言葉を受けられたとのこと。これを聞いて肩の荷がおりた思いがした。
それにしてもリハーサルは3時間もあったというのに一通り通しただけで終わってしまった。 というのも、照明合わせで時間を取るのはしかたないとしても、オープニング後のスピーチまで本番並に (代役にもかかわらず)やるのだ。午後はフィナーレのリハを含むステリハ(全体の通しリハ) が2時に始まる予定だったが、いつになっても始まる気配が無い。 ステリハに3時間くらいかかると見込んでいた私としては、これで6時半の開演に間に合うのかと気が気ではなかった。 結局3時頃からステリハが始まる。日本人が時間にうるさすぎるのだろうか。


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(日本大使館で)
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(スタンディングオベーション)
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(フィナーレのリハーサル)
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(フィナーレ)
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(チャトモック劇場紅竜昇天)
3.世界遺産アンコールワット

3日目はオフ。カンボジアが誇る世界遺産アンコールワットを駆け足ではあったが見学。 偉大なクメール文明の一端に触れることが出来た。こちらへ来て初めてのスコールを体験するが、 アンコールトムの急階段を登る時などは小止みになった。きっとみんなの心掛けが良かったのだろう。又、雨のお陰で、 あまり暑い思いをしなくて済んだのも事実だ。  観光地では子供達が重要な稼ぎ手らしい。要所要所で子供達が写真集などを売りに寄ってくる。 地雷でやられたのか、足の無い子もいた。学校へ通える子供達は幸せな子供達なのだろう。  帰り道に寄った湖で、ピックやライオン達が2人の男の子と砂遊びを始めた。するといつの間にか、 さっきまで本を売っていた2人の女の子が、その横で砂遊びを始めたのだ。商売の邪魔をしてしまったかもしれない。 でも大人がそれを叱るわけでもない。ライオンもピックも、本当はもっと遊んでいたかったに違いない。あの子供達もきっと・・・


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(アンコールトム)
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(急階段(上から)
 余談だが、行きの飛行機で面白い体験をした。出発前に機内が煙に包まれたのだ。一瞬何が起きたかと思ったが、 乗務員はどこ吹く風。小さな飛行機なので搭乗中に機内の空気は外と同じ状態になる。そこへエアコンを入れるものだから、 湿度の高い空気が急に冷やされて、まるでスモークをたいた様になる。前の方で、 中国人らしき男性が「Why?Why?」叫んでいる。そのおじさんは到着まで、非常口の横の席に緊張して座っていた。
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(機内は霧に包まれ・・・)
4.カンポットは凄まじい暑さだった

4日目にカンポットへ。揺れるバスの中で口太鼓(ドンカカドンドンと口でリズムを歌う)でリハーサルをし、 カンポットのASACセンターへ着くと、近隣の小学校は午後の授業を休校にして出迎えてくれた。不思議なもので、 こんなに揺れるバスに乗るのは皆初めてだったと思うが、   1,2時間も乗っていると慣れてしまったのか、 疲れの方が勝っていたのか、殆どのメンバーが飛び上がるほどの揺れにもめげずに眠っていた。  早めに現地に行っていたライオンとピックこと佐藤くんと川島くんは、カンボジアの子供達はシャイでのりが悪い、 などの心配をよそに既に子供達に囲まれて遊んでいた。(二人のキャラクターに負うものがあったと思う。)その効果も あってか開演1時間前から子供達は場所取りの為に最前列に陣取っていた。手拍子が始まり演奏にも力が入る。


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(カンポットへ向かう)
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(カンポットの子ども達)

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(ASACセンター前)
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それにもしても想像を越える暑さ。メンバーの一人が演奏終了後、休憩室で脱水症状を起こし意識が無くなる状態に。 一時はどうなるかと慌てたが、暫くして意識が戻り、点滴無しでも大丈夫との診断にほっと胸をなでおろした。  とにかく体温よりも高い気温、高い湿度。汗をかいても乾かないので、体温が逃げず、熱が体にこもっていく。 夏のカンボジアの屋外で和太鼓を演奏するのは自殺行為かもしれない。私は移動中のバスの中でも頻繁に水分を取り続け (ウォーターローディング)、演奏中もできる限り水分補給をした。多分この日4リットルは飲んだと思う。 それでも喉は渇いた。水分補給については事前に注意されてはいたものの、経験の無い人には想像もつかなかったろう。 私はマラソンで給水が出来ずに脱水症状になりかけた経験があり、脱水状態の恐さを身をもって知っていた。 そんな経験が無ければ同じような目に会っていたかも知れない。  その後一人を残し、近くのソバンサコー小学校へ。歌ったり踊ったりケンケンパで盛り上がり、紙ヒコーキで遊び、 ここではサポートで同行してくれたメンバーが中心になって子供達と遊んできた。壊れかけた校舎で学ぶ子供達は、 とても明るく素朴で、日本の子供達が失ってしまった何かを持っていた。

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(カンポット川のレストラン)
5.ドリアンは臭くなかった(美味かった)

カンポットでは、昼夜ともにカンポット川に張り出すようにたっているレストランで食事だったが、 ここで用意してくれた海老は美味しかった。そして、これは絶対に食べようとみんなで言っていたドリアン。 かなりの覚悟を決めて行ったのに、拍子抜けするほど臭くなかった。マンゴーとバナナを合わせたような食感。 (と私は感じたが)中々美味しいではないか。取りたての物はそんなに臭わないのだそうだ。 時間が経つにつれ段々臭くなるとのこと。さてはみんな新鮮なドリアンを知らないんだな。 と、ちょっぴり優越感を感じたのであった。

6.プレイベン小開校式では皆踊り出した

5日目、カンポットからプノンペンへの帰路の途中にあるプレイベン小学校で、開校式の祝賀演奏。 村の人達が総出で出迎えてくれた。立派な舞台を用意してくれたのだが、 我々の太鼓では踏み抜いてしまうのは必至といった状態の床板。しかたなく、炎天下での演奏となったが、 日向に出ただけで体中の汗が吹き出てくるような暑さ。演奏開始後4,5分もすると頭がくらくらしてくる。 メンバーの眼を見ると皆放心状態のような眼に。「よく最後まで持ったな」というのが正直な感想。 その後の長いスピーチがありがたく思えた。  テープカットの前に紅竜囃子を演奏すると、次第に踊り出す人たちが・・。終わるに終われず、 いつもの3倍ほど演奏したが、ほっとする間もなくアンコール。「ええいっ、ままよ」と急きょ弁天囃子を演奏。 かくして一人が貧血を起こしてしまった。


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 この暑さをどう表現したら伝わるのだろう。帰国後サウナに入った時、 以前は3分も入っているとたまらなくなり5分も居れば長いほうだったのに、 10分も入っていて全然効かなかった。と言えば、少し分ってもらえるだろうか。
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 長い長い開校式が終わって、昼食のもてなしを受けた。椰子の木陰でガーデンパーティである。 水溜りのような池で飲料水を汲んでいるような所だが、ココナツや我々の為にわざわざ用意したのだろう、 ミネラルウォーターもある。お土産は手作りの箱に入っていた。精一杯のもてなしであることが分かり感激した。  帰り際、又、子ども達と遊ぶ。これで全ての演奏日程を終えた。  帰りは少しウルルンになっていたかもしれない。
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7.トゥール・スレンは耐え難かった

最終日は、買い物デー。セントラルマーケットへ行く。渡航前にお世話になった方たちへ、 少しばかりお土産を買わなければならない。少しばかりといっても、かなりの数だ。 しかも、あまりカサの張るものは荷物の制限があるため持ち帰れない。それでも値引き交渉の駆け引きの楽しさを少し味わった。  午後は、空港へ行く前にトゥール・スレン博物館へ。1975年から3年8ヶ月に及ぶポル・ポト政権下で、 激しい拷問の舞台となった刑務所だ。それまでは高校だったという建物は、当時の日本でも近代的といえる鉄筋3階建ての校舎。 ここに収容された約2万人の内、奇跡的に生還できたのはわずか6人。この生存者が描いたという拷問の図も凄まじかったが、 それにも増して耐えがたかったのは収容されていたという子供達の顔写真だった。ただの顔写真なのに、 カンポットやプレイベンで遊んだ子供達と重なって胸がつまり、涙をこらえることが出来なかった。 権力者や指導者が狂うとこんな悲惨な結果を生むのだ。20世紀に人類は、戦争のおろかさを学んだはずなのに、 未だに地球のどこかで戦争が絶えない。日本も、平和ボケなどしてはいられないのだ。 さすがに一同黙り込んでホテルへ。楽器を積み込んだら空港へ向かう。 最終日にして、カンボジアらしいスコールに遭う。あっという間に道が川になる。それにしても、 到着日と太鼓公演のあった日は雨に遭わなかった。ASACセンターからの帰りのバスの中では雨が降ったが、 皆雨を見て喜びの声を上げたほどだった。晴天を祈って、全ての公演に「紅竜昇天」を入れたのだが、 見事に当たった。実は、我々が帰国してから1週間の間、毎日スコールがあったそうだ。これもみんなの心掛けか。

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8.成田は寒かった

翌朝、成田空港に着く。あまりの寒さに一同震えてしまった。よくぞこの一週間という思い。 振り返ると、かなり過酷な公演ツアーだったと思う。よく、子供達から逆にエネルギーをもらったという話しを聴くが、 私達はエネルギーを出し尽くしたというのが正直な感想。しかし、子供達は私達のエネルギーを確かに受け取ってくれたと思う。 いつかこの子供達の中から、カンボジア伝統文化の担い手が生まれ、いつの日か日本で競演できる日が来たら最高だと思う。

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9.このツァーに関わった全ての人に感謝

最後に、このツアーで忘れてならないのが、同行してくれたサポートメンバーだ。 このツアーを無事に切り抜けることが出来たのは、正にこのサポートメンバーが同行してくれたからだ。 このメンバー無しにはこの公演ツアーの成功は有り得なかったと思う。そして、日本大使館、日本人会、 ASACスタッフの皆さんの協力によってすばらしい体験を得る事ができた。  また、この公演ツアーのきっかけを作っていただき、その後も連絡等でお世話いただいた岡村真理子さん、 チャリティコンサート実行委員会を立ち上げてくださった宮武さんをはじめ実行委員の方々、 芝浦柏の生徒会の皆さん、ご寄付いただいた方々、そしてコンサートに来ていただいた方々、 新聞等で報道してくださった方々、本当に大勢の方々にお世話になった。心から感謝!

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P.S.今度は冬に行きたい!(アンコールワットマラソンに呼んでくれないかな?)

「チェコ&スロバキアレポート」(2001.6.11~6.20)

6月11日~20日まで、成田楽友協会の依頼で成田楽友協会合唱団・日本航空グ ループ合唱団フロイデと共にチェコ&スロバキア演奏旅行に行ってきました。「成田 山賛歌」の太鼓と自作の独奏曲「雷槌」を演奏するためです。成田山には1050周 年祭1060周年祭と呼んでいただき、2年前には、やはり成田楽友協会の要請で フィンランドへ連れて行っていただきました。その繋がりで今回はチェコ&スロバキ アとなったわけです。書き始めると沢山有りすぎて困ってしまうのですが、出来るだ け簡潔にまとめて見ようと思います。


<雨上がりのプラハ>
アムステルダム経由で成田から15時間40分、雨に濡れたプラハの空港に到着。 1週間前までは猛暑で、この1週間は雨だったそうだ。飛行機を降りた時は、もう雨 は上がっていた。「ついている」というよりは世界的な異常気象が気になった。


<しんどかったステージ>
プラハで1泊。市内観光では世界最古の石橋と言われるカレル橋(写真 ①②)などを観光する。翌日はバスでウスティへ。このホテルが(写真 ③)面白かった。共産圏時代の名残を感じさせる造りで、観光客よりビジネス客 の方が多いのだろう、質素な部屋にシャワーとトイレだけ(バスは無し)。エレベー ターは、木製の扉をドアのように手で開かないと乗り降りできない。(写真が無いのが 残念。手に入ったら掲載します。)さて、いよいよリハーサル。初めての指揮者とオーケストラ。変拍子の所で狂っ た。しかし何事も無かった様に先へ進む指揮者。指揮者の英語もうまく聞き取れな い。「いやな予感」。翌日、タンホイザー城見学。前日のリハの事が頭を離れない。今日はテプリチェ劇 場で本番だ。なんとか本番はやり過ごしたものの、ソロのリハを殆んど出来ず、本番 では変な響きに包まれて、自分の音が聞き取れない状態での演奏となった。

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写真①カレル橋(パンフより)

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写真②カレル橋の上から

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写真③ホテルの前で

<カルロビ>
翌日はカルロビ観光。焼肉ではない。モーツァルトもたびたび訪れたと言う有名な 温泉保養地だ。温泉と言っても入る温泉ではなく、飲む温泉。日本人なら絶対に入る と思うが、ここでは特製の器で温泉を飲みながら歩くのが正しい。器も、持ち手がス トローを兼ねるという特許モノ(写真④)。この地方の土で焼いた物は、土中に 含む鉄分で自然に綺麗なピンク色になる。町の真中を川が流れ(写真⑤)、気候 もちょうど良い。散歩のために造られたコロナーダが至る所にあるが、カルロビで一 番美しいと言われるムリーンスカー・コロナーダの前の広場ではパフォーマンスが行 われていた(写真⑥)。実はこの写真、人ごみで見えなかったので、手を上に いっぱいに伸ばして撮影した物で、実際には人の頭の間からチラチラと見えただけ だった。しばしの安らぎだが、できれば演奏を全部終えた後で2,3日ゆっくりした いところだ

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写真④カルロヴィの温泉カップ
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写真⑤市内を流れるテプラー川
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写真⑥ムリーンスカー・コロナーダ前で


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写真⑦演奏会パンフレット
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写真⑧ウスティ劇場との契約書
<また変な響きに包まれる>
翌日はウスティで本番(写真⑦)。しかし、なんとこんな所で花粉症が出てし まった。向こうは白樺花粉症のシーズンだったのである。薬を分けてもらったが、こ の薬が良く効いた。効きすぎて喉が渇き、本番中は喉が引っ付き窒息するかと思っ た。またもや変な響きに包まれる。後で分かったことだが、ティンパニー奏者が楽器 の上にマフ(音消し)を置いていなかったのだ。まさかとは思ったが、信じられない ! 変な響きの犯人はティンパニーの共鳴だった!!


<初体験>
色々な意味で大変なステージだったが、貴重な体験をさせてもらった。劇場は私を ソリストとして呼んだということで契約書(写真⑧)を交わし、出演料を頂いた のだ。日本円で約4万円(「雷槌」2回分と言うことか)。源泉徴収で25%引かれ て手取り3万円(外国で1万円も税金を払ってしまった)。安い!と思われるかもし れないが、物価が日本の5分の1か6分の1というこの地域では、半月は遊んで暮ら せるくらいの額なのだ。この夜、外貨でギャラをもらった記念にという訳ではない が、一杯やろうと団長やソリストやスタッフに声を掛けた。なぜか外に出ると10人 もいるではないか。「よし、1日でこのギャラ使っちまえ」と思ったのだが、とんで もなかった。チェコビールは美味いネエなどと話に花を咲かせ、良い気分で会計をす ると、余りの安さに絶句。日本円で約2千円だった。


<再びプラハへ>
翌日は又プラハへ。余談だが、ウスティのホテルには3泊もしたせいか、懐かしさ を覚える。カルロビから戻った時も同じ部屋だったせいもあってか、手動のエレベー ターが何故か嬉しかった。思わず「ただいま」と言うと、隣の部屋から「おかえり」 という声が返ってきた。プラハへ行くと、本当に同じ国かと思うほど何もかもが違 う。ホテルは都会的で快適そのもの。しかし、物価も都会的で部屋のミニバーのビー ルは6百円もした。ウスティのホテルには冷蔵庫などと言う物は無かったが、バーで 売ってもらったビールは百円位だった。ウスティが懐かしかった。(ビールのせいだ けではない。ぜったいに!)時間の前後関係の記憶が無いのだが、ドヴォルザークの墓(写真⑨)とスメタ ナの墓(写真⑩)にお参りした。近くの売店で買い物をしているとレジの横のパ ンフレットに目が行った。「3ドル払って、100ドル得する・・・」「んっ!何故 読めるのだ?」気が付くと日本語だった。聞くと無料だと言う。日本語と英語でカ ラー写真入り100ページものガイドブックだった(写真⑪)。「ピルゼン」レストランにて昼食後、国民劇場にてオペラ鑑賞。久々のオペラ鑑賞 は嬉しかった。言葉は解らないが、事前の説明と単純な内容だったので楽しめた。悪 魔が悪巧みするが、主人公の女性のあまりのオシャベリに遂には退散すると言った内 容だ。小中学生くらいの子供達が結構いて(内容にもよるだろうが)オペラを楽しん でいるのが印象的だった。夜のレストランでは今仲団長持参の醤油のお陰でとてもおいしい夕食となった。

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写真⑨ドヴォルザークの墓前で
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写真⑩今仲団長とスメタナの墓前で
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写真⑪ガイドブック(無料)


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写真⑬昔のガラス工場の様子
<プラチスラバへ>
翌日は、ブルノでガラス工場を見学(写真⑫)。昔ながらの工場と言う感じだ が(写真⑬パンフレットより。)、職人達が見学者に対してとても誇らしげにし ているのが印象的だった。 さて、いよいよスロバキアへ行くわけだが、国境で通関手続きに大変な時間がか かってしまった。その日の夜にコンサートなので気が気ではない。着くなり一息つく 間もなく、リハーサルもそこそこに(もちろん太鼓のリハは無し)開演時間が迫る。 巡業ではよくある事だが。 教会でのコンサートはフィンランドでも経験したが、ここの教会はあまり響きすぎ ず、チェコでの演奏よりもずっとやりやすかった(写真⑭)(写真⑮前列中央。 )打ち上げのパーティもとても楽しい雰囲気で、たまたま来ていた日本人とその 知り合いのスロバキアのヴァイオリンの先生も参加し(この先生もとても感じの良い 方でした)、ダンスと歌で盛り上がった。とくに「おお牧場は緑」では日本語とスロ バキア語の大合唱。「これは、私達の歌ですよ。」と(この英語はちゃんと聞き取れ た)話し掛けられ、「日本人なら誰でも歌える」と(もちろん英語で)答えると、と ても喜んでくれた。
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写真⑭教会で「雷槌」を演奏
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写真⑮司教様を囲んで記念写真

<ウィーンへ>
翌日は、午前中デビン城見学、市内散策(写真⑯⑰)。昼食後、バスにて ウィーンへ向かう。スロバキアは1日目があまりにも慌しかったので、もう少しゆっ くりしたかった。とても(人が)いい所だと感じた。 ウィーンでは国立劇場で「魔笛」を鑑賞。オペラを経験した者にとっては憧れの劇 場であり、そこで「魔笛」を観る事が出来るとは。 色々書きたいことは有るのだけれども、市内を歩いていて面白かったのは、自転車 道が車道や歩道と別に確保されていること。狭い道では自転車道が一方通行になって いた(写真⑱)。


<日本へ>

翌日は、フランクフルト経由で成田へ。駆け足の旅行だったが、とてもこのような スペースでは語り尽くせない程の経験をさせていただきました。実は、この旅行には 車椅子の方が参加していました。メンバーがサポートして移動するのですが、坂道や 石畳が多くとても大変でした。リフトバスなどと言う物も無く、背が高く入り口の狭 いバスに乗り降りするのは特に大変。でも運転手がとても親切に彼女を抱えて乗り降 りの手伝いをしてくれたのです。ウィーンはとても進んだ都市でしたが、運転手は 「それは私の仕事ではない」と言いました。日本もバリアフリーが叫ばれ、色々な設 備が整えられてきています。しかし「心のバリアフリー」が一番大切なのではないか と考えさせられました
いよいよ、成田へ。

この忙しい時期に10日間も留守にした後には、スケジュール地獄の夏が待ってい たのでした!・・・・・


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写真⑯こんな所にこんな物が
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写真⑰絵葉書より>
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写真⑱狭い道では自転車も一方通行